23年度 優秀教員のことば

日ごろの教育に対する工夫   — 産学官連携本部(材料開発工学科) 米沢  晋

 講義を進行する上では常に悩ましいことが多く存在するが、その中でよく話題に上るものについて触れてみたい。

 

  1. どこまで手厚くするのか?
  2. 私が学生であった頃、教科書というのは海外の著名な先生が執筆されたものあるいはその翻訳もので、なにやら辞書のような分厚いものがドーンとあるだけというのが普通だった。書籍部の書棚を眺めてみるとよくわかるが、今は「よくわかる」や「なっとくする」と銘打ったテキストがわんさとあり、随分と学ぶ側にとっては非常に親切な環境になっている。ただしそれをもって「今の学生は恵まれているなぁ」と言ってしまうのは早計で、これによって助けられているのは実は我々教員なのではないかと思っている。学んで身につけるために必要な努力は基本的には同じだろうと思うので、そうすると教育が効率化されてより助かるのは教員の方なのではないかと。私自身は講義の中で、キーワードが記述によって常に意識されるような授業用に特化したプリントを用意し、記述が終了(穴埋め)すると、それがいわゆる講義ノートのようなものになるようにしている。まさに「○○の友」といったワークブックのスタイルであり、時として「そこまで手厚くするのはやりすぎではないか?」という指摘も受けるのだが、これとて学生のためではなく教える側の都合と言えばその通りである。「教える側がこんなにも親切にしてやっている」とか「君たちは恵まれてるよね」という考えを持ってしまうのが一番まずいのだろうと自戒をこめて感じている。

     

  3. 身についたかどうかをどう評価するのか?
  4. 講義を行って究極のところで問題になるのが「どう評価するのか?」であろう。試験をきっちりやって公平に点数をつけて評価すればいいというのは至極当然であるものの、学習の目的が「社会へ出て役立つ知識や課題解決能力がきちんと身についている」ということにあるのであれば、そこへ至るまでには最終的な評価が出ないことになる。とある科目の成績をつけることについてそこまで責任を考えることはないと思いつつも受験勉強の延長のような形を「それでいいや」と受け入れることにはなかなか抵抗がある。時間の制約で実現できる見通しもないが、ひとりずつ口頭で問答して何をどこまで身につけたかを聞きとって評価してみたいとも思う。せめてもと思い、毎講義ごとに感想、質問、授業内容への希望、その他自由記述を記述する時間をとり、回収、次講義時に回答あるいはコメントを述べるよう努力している。5 minute paperのようなものであるが、それよりも記述の自由度を高く設定することで、集計は困難であるが、学生の「気持ち」が見える部分が増加する。例えば、「授業内容を理解できたか?」という質問においては、以前には「理解できた」とした内容に対する質問でも試験が近づくにつれて「理解できていない」と回答する傾向が顕著になる。綿密に指導するためにはこの中から本当に理解できていないものと単に不安に駆られているものとを区別して対処する必要がある。こうした微妙な「空気」はなかなか読めないが、やはりコミュニケーションなくしては試行錯誤すら出来ないと感じている。また、個人あるいはクラスの単なる学習到達状況だけでなく身体的、精神的健康に関する状況も少なからず把握できるため、もちろん完全ではないが「正直」なコミュニケーションをとれるように思う。

←1つ前のページに戻る

教育

工学部・工学研究科

優秀教員

GPプロジェクト