25年度 優秀教員のことば

Banality of Evil:悪の陳腐さについて考える授業     — 材料開発工学科 飛田 英孝

当学科の技術者倫理教育科目である「社会と技術者」という科目を二人の教員で担当しています。私の担当部分の約半分で水俣病問題を教材として取り上げています。今年の授業では、技術者倫理問題としての水俣病事件を終えた後、1995年の村山政権による政治決着、そして2009年の「水俣病被害者の救済及び水俣病問題の解決に関する特別措置法」についても言及しました。この両者で謳われたのがいずれも水俣病問題の「最終解決」という文言でした。

「最終解決」とは何か

最終解決、それで終わり。その時に切り捨てられるものはないのでしょうか。  私以上の世代にとっては、最終解決という言葉は、ユダヤ人問題の最終解決、ホロコーストを連想させます。数百万人のユダヤ人を収容所へ送る責任者であったアドルフ・アイヒマン。1961年に始まったアイヒマン裁判で彼が主張したのは、「自分は、命令に従っただけ。」この裁判を傍聴したユダヤ人哲学者、ハンナ・アーレントは、アイヒマンは反ユダヤ主義者だから人道に対する罪を犯したのではなく、単に考えない人間であるからだと結論づけました。

アイヒマンは虐殺を知りながら、それが自分の仕事であるという、それ以上のことを考えませんでした。いや、考えることを拒絶しました。アーレントは、そのようなアイヒマンを観察するなかで、本当の悪は、平凡な人間こそが行うというBanality of Evil(悪の陳腐さ、凡庸さ)という概念を創出しました。最終解決が切り捨てるものの中に「考え続けること」があるのかもしれません。

平凡な人間こそが巨悪を起こす

許しがたい巨悪を「考えない」ことに帰するこの結論は、発表当時、大変な物議を醸しましたが、カントの「啓蒙とは何か」で描かれている「理性の私的使用」に基づけば、至極まっとうな議論であるように感じられます。

カントに従えば「上司の指示に受動的に従う、割り当てられた指示に無批判にふるまうこと」は、理性の私的使用であり、私たちの日常業務の大半が「私的使用」となり得ます。カントが「啓蒙:enlightenment」という言葉に込めたのは、他人に指示を仰がなければ自分の理性を使うことができない未成年の状態を脱する勇気を持てということ。結局、自らの理性を私的にしか使わない未熟で平凡な人間こそが巨悪を引き起こすのではないか。水俣病を引き起こした技術者・経営者・役人・政治家たちも真面目に業務をこなしただけだと感じていたのかもしれません。

考えることには知的体力が必要です。でも、人間はともすると一日の業務を終えた後の肉体的・精神的疲労を満足感に結びつけやすい存在です。時には一歩下がって自らの為していることを俯瞰的にマッピングし、社会に対しどのような影響を与えているのかを考える必要があるのでは。私が会社員時代に社長から頂戴し、座右の銘としている言葉。「給料はお布施だと思いなさい。誰かに感謝してもらわない限り受け取ってはいけません。」

自戒をこめて

 私が担当する最終回の授業で、上記の話題を学生たちと考えました。「社会と技術者」を担当させて頂いて有り難いと感じるのは、普段、ともすれば忘れがちな大切なことに気づかせてくれること。  そういえば、大学での私たちの仕事にも「理性の私的使用」が増殖しつつあると感じているのは私だけでしょうか。

 

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